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まず自分を幸せにする生き方とは?

プロフィール
株式会社Pallet 代表取締役
株式会社AOD 取締役 CCO(Chief Communication Officer)
一般社団法人グラミン日本 仙台支部 支部長  羽山 暁子氏

大手人材サービス会社での法人営業・人事を経てデータサイエンスカンパニーに転職。人事マネージャーとして、マザーズ・東証一部上場を経験。 新卒・中途採用、社内文化醸成、社内研修、労務、メンタルヘルス等幅広い人事経験を持つ。2015年 東京から仙台にIターン。3年間のフリーランスの後、株式会社Pallet設立。アドラー心理学に基づくコーチングを基に、ビジネスコーチ、研修講師、組織コンサルタントとしてローカルの中小企業から、グローバル企業まで組織開発に関わる。「人づくり、組織づくり、町づくり」「はたらくことがあたり前に幸せな社会を共に創る」をテーマに活動。


羽山暁子さんに、「まず自分を幸せにする生き方」についてお話を伺った。


羽山さんはどのような幼少期を過ごされたのでしょうか?

父が総合商社の駐在員で、2歳になる少し前から小学校へ入学する直前までインドネシアのジャカルタで暮らしていました。現地では三階建ての立派な住居にお手伝いさんや運転手さんがいるような生活をさせていただいていたのですが、当時暮らしていた場所は地域によって貧富の差も大きいような環境だったんですね。場所によっては危険なところもあって。ただ私の母がとてもおおらかな人でして、「自由に遊んでおいで」と。朝から晩まで兄や現地の友達と野原を裸足で駆け回る野生児のような幼少期を過ごしていました。とても楽しかった記憶が強く残っています。

野生児として駆け回っていらっしゃった。そんなジャカルタでの生活から小学校入学前に帰国されたのですね。

はい、当時はまだインドネシアで生活する予定だったのですが、母が病で倒れてしまい父だけを残して母と兄と私で緊急帰国することになりました。

お母様のご病気がきっかけで。

そうなのです。帰国後は母の入退院のフォローなども総合的に考え、公立ではなく小中高一貫の私立校を受験することにしたのですが、この私立校への入学が母の病気と併せて自分にとって「生きること」を考える大きな契機になりました。

小学校入学とともに「生きること」を考えることになられたというのはとても興味深いです。

まず学校についてですが、元々ジャカルタで野生児のように野原を駆け回っていた自分が、急に統一された制服とルール、「ごきげんよう」という世界に足を踏み入れた途端、まさに入学式の日から自分の個性って一体なんなのだろう?という疑問を抱く日々を過ごしました。自分らしく生きることは求められていないのではないか、という感覚ですね。

また、母は帰国して3か月位集中治療室に入っていたのですが、数か月たって久しぶりに会えたときにとても苦しそうに、辛そうにしながら病気と闘っている姿を目の当たりにして、生きることって、死ぬことってどういうことなんだろうと、当時6歳ながらに考えて、死に関する本を読んだりしていたのを記憶しています。そうして行きついたのが、母がいつか亡くなるときに「幸せな人生だった」と思ってもらえたら嬉しいなという想いでした。

自分らしさ、個性を大事にして生きることって?生きるということのそもそもの意味って?そのようなことに漠然と向き合いながら小学校低学年時代を過ごしました。

入学したこの環境は自分の本来の居場所ではないのかも?という思いを抱きつつ、お母さまには幸せだったと思える人生を送って欲しいという気持ちで小学校時代を過ごされたのですね。とてもしっかりされていますね。

いえ、そう聞こえるかもしれませんが、実は全然そんなことはないのです。当時はご近所や周囲の方々がたくさんサポートしてくれていて本当に色んな方々にお世話になっていて感謝しかありません。皆さんから「お母さんの病気もあるのに、兄妹でしっかり頑張っていて偉いね」とも言っていただくことも少なくありませんでした。

ただ、正直なところそのときの自分は偉いなんて全然思っていなくて、複雑な気持ちを抱えていました。自分は本来は野生児で、自由に野原を駆け回っていたいのが私。でもなにか周囲の期待にあわせて、所謂「良い子」に振る舞っていると周囲が褒めてくれるんですね。決して自己一致はしていなかったのですが、当時は周囲の顔色をみて喜ばれるような自分を演じて褒めてもらうことでアイデンティティを保ちながら生き抜こうとしていたような感覚でした。本当はしっかりなんてしていなかったんです。

自覚している本来の自分と、周囲から見られる自分には実はギャップがあったと。その後の学校生活を経て羽山さんの自己一致感はどのように変化していかれたのですか?

小学校、中学、高校と私にとっては画一的であり没個性的と感じる学校生活を過ごしていったのですが、やはりジャカルタで過ごしていた幼少期の感覚がずっと残っていました。世界はきっともっと広くて自由なはずという想いですね。大学進学時にはその想いを満たせる場所はどこだろうと考え、国際基督教大学(ICU)に進学しました。現役時には親戚や周囲から女子大への進学を薦められていたのですが、このときはもう周囲が喜ぶ選択ではなく、自らの意思で自分の気持ちに正直に生きようと決意して、ICUを目指そうと浪人することを決めました。ICU進学後はそれまで狭さを感じていた世界をとにかく広げたいという想いから、アルバイトをしてお金が貯まったらバックパックで海外へ旅に出る、といった自分を取り戻すかのような生活を送りました。

すぐにジャカルタ時代の野生児の羽山さんに戻れましたか?

いや、実はすぐにではありませんでした。ICU時代に一年間イギリスに留学しているのですが、そのときにハッとさせられる経験をしています。当時無意識だったと思うのですが、留学先で小学校から高校までの自分のまま、なんとなく良い子を振る舞っていたのですが、そうしたら、「暁子は何を考えているかわらない」と言われびっくりしてしまって、「もっと自己主張しなさい」「わがままになりなさい」と。日本で過ごしてきた当たり前が、世界ではやっぱり当たり前じゃないんだということを思いっきり突きつけられ、あらためて自分は自分として生きていいんだということを留学先で再認識できました。akiko_hayama_if

そんな大学生活を経て、就職先はどのように考えて選択されたのでしょうか?

そうですね、多様性と個性を求めてICUに進学してたくさんの素晴らしい経験が出来たのですが、いざ就職活動となると周囲の友人の志望先がどうも似たり寄ったりな感じがしたのですね。外資系、国際機関、コンサルティングファーム、大企業などなど。そのときの自分は何か周囲と同じような選択をするのが自分らしくない感じがしていたこともあって、ベンチャー企業が面白そうだと。またこれは就職活動をしはじめてから感じたことなのですが、大人って広い世界のなかで活き活きと働いて生きている存在だと思っていたのに、なんて疲れた顔をした大人が多いんだろうと。世界で働くことにも憧れるけど、自分はこの日本の疲れた大人たちを少しでもHappyに出来たら、という想いが高まり、当時まだ業界として確立しきっていなかった人材業界のインテリジェンスに就職を決めました。


日本の疲れた大人をHappyにしていきたい、という想いでインテリジェンスに入社されていかがでしたか?

もうこれがのっけから想定外で、インテリジェンスではキャリアコンサルタントを希望していたのですが、配属先は泥臭いゴリゴリの広告営業職でした。配属先は聞いていた話と違うし、仕事はひたすら毎日ビルに飛び込むような営業だし、目標数字を達成することの意味もわからないしで、辛い日々を過ごしました。ただ、当時の上司が素敵な方で、そんな私にしっかりとしたビジョンを示してくれたんですね。私たちの取り組んでいる仕事は日本の採用を変えていく仕事なんだと。目先と足元のことにしか意識が向いていなかった自分に、この仕事がどんな未来に繋がっているのかというビジョンを示していただける上司がいたことで頑張っていくことが出来ました。

そうしているうちに、待望の異動のチャンスがやってきました。当時は選択肢が二つ示されて、一つは入社当初希望していたキャリアコンサルタント。もう一つは人事(採用担当)でした。持ち帰って検討する間もなく、すぐ決めなさいと言われ、私が出した結論が人事への異動でした。

入社当時から希望していたキャリアコンサルタントではなく人事を選んだのですか?

はい、そうなのです。当時キャリアコンサルタントはインテリジェンス社内に600人ほどいたのですね。それに対して人事(新卒採用チーム)は15名程。これを考えた時に、私の根底にある「人と違うことがしたい」という想いがふつふつと高まって、より人数が少なかった人事への異動を選んだのです。

人と違うほうを選ぶ、という価値観から人事を選択をされたのですね。その後は?

はい、人事という仕事からは非常に充実感を得ていました。その後、結婚をしたタイミングくらいだったのですが、ふと気が付くとインテリジェンスが8000人位の組織規模になっていたんですね。そのとき自分の胸に去来したのは、「1/8000人の自分でよいんだっけ?」「そんな状態で仕事していていつか会社がなくなったときに生きていけるのだっけ?」という想いでした。人事の仕事は面白い。であれば1/8000人ではなく、自分自身がもっとむき出しになった状態で人事の仕事を追求していこうという思いにいたり、当時人事立ち上げのタイミングだったベンチャー企業のブレインパッドに転職をしました。

大勢のなかの一人ではなく、自分がむき出しになった状態でありたいと。ブレインパッドというベンチャー環境での仕事はいかがでしたか?

インテリジェンスでもブレインパッドでも、私がずっと大切にしていきたいと思っていたのが、所属している仲間が少しでも活き活きと、キラキラと働ける環境を創れたら、ということで、それが人事としての自分の役目だと思っていました。そういう意味でも本当に色々な経験をさせてもらえて感謝しかありません。一方、ブレインパッドが当時 IPOを目指していく過程ではなかなか大変なことも多く、上手くいかないことの連続でした。良かれと思って行った施策にも現場から文句を言われたり、それに応戦したりと、疲弊するような日々も過ごしました。ときになんのために働いているのだろうか、命を擦り減らしながら頑張っているのに、というやるせない思いになったこともありました。

辞めたいという思いにはならなかったのでしょうか?

実は仕事が辛くて辞めたいという思いになったことはありませんでした。私にとって仕事とは自分を活かし、自分が自分であるために大切なものという認識でしたので、辛いからといって辞めるという選択肢はなく、その困難な状況においてどう頑張っていこうかという考えしかありませんでした。

そうこうしていたとき、突然夫が仙台で働きたいと言い出したんです。なんの縁もゆかりもないのに。それを聞いた私は驚きつつ、「そうなんだ。やってみたいなら良いんじゃない?でも私は東京で仕事があるし、じゃあ週末婚だね」なんて返事をしたのですが、その後少し冷静になって考えてみて、自分の人生において仙台という選択肢が出現したことってとても希少なことだなと。なんだか面白いなって思う自分がいたんですね。人と違うこと、迷ったら現在地から遠いほう、ワイルドなほうを選択したい自分にとって、この仙台という希少な選択肢って想像もつかないくらい面白いかもと感じるようになってきたのです。

迷ったらワイルドかどうか?

そうなんです。しかも、仙台を選ぶだけでも希少な選択なんですが、サラリーマンじゃワイルドじゃないなと思って、一人も知り合いのいない仙台の地で独立することを決意しました。営業の経験もある、人事もある程度やってきている、きっとなんとかなるさというジャカルタにいた頃のような自由な感覚ですね。あまり躊躇することもなく、自然と仙台で独立するという決断をしていました。

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仕事が辛かったからではなく、羽山さんにとってよりワイルドな選択が仙台での独立という道だったわけですね。すぐ軌道にのった感じだったのでしょうか?

これがまるで全然でして。独立して当初の稼ぎが、初月で4万円、翌月は8万円と結構ヒリヒリする状況でのスタートでした。なんとかなるだろうという勢いで独立したものの、実際にしっかりとした対価が得られない状態が2か月も続くとさすがに精神的にきつかったですね。そこから色々な方に相談したりしているうちに次第にお仕事の依頼が増えてきたのですが、今度は仕事を請けすぎてしまってキャパオーバーでパンクしたりと、自分をコントロールする方法も学びながら、紆余曲折ありながらの独立スタートでした。


そうして2019年にはPalletを、2020年にはAODを設立されたいま現在、羽山さんはどんな感覚で日々を過ごされていますか?

そうですね、いまは「自分の人生を生きている」という感覚があります。この意味では点数をつけても100点にかなり近い状態です。こういう状態で自分自身がいられているのは二つの要素に支えられていると感じています。

一つは自分の意思(WiLL)、二つ目は仲間の存在です。私はWiLLを「価値観」と「未来への意思」と定義しているのですが、自分自身がこうありたいと思う価値観を明確にして、こうなりたいという未来への意思をもつ。たとえ仮決めの未来だとしても、ちゃんと言語化してそこに向かっていくアクションをする。そしてそれを一人ではなく、共感しあえるフラットな関係性の仲間と一緒に取り組む。この状態であれていることが、まさに「自分の人生を生きている」ことを支えている要素だと感じています。
 ※WiLLの「i」は心に灯をともすロウソクをイメージし、小文字で表現しています。(株式会社Pallet HPより)

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一人ではなく仲間と。仲間の存在が羽山さんにとって非常に大切だというのは独立前から自覚されていらっしゃったのでしょうか?

いえ、独立当初は良くわかっていなかったのですが、2018年9月にあらためて人生を丁寧に振り返りながら、未来へのタイムラインをひたすら想像してみたのです。この過程において過去の自分の人生において幸せだった場面を思い返してみると、常にそこには同じ未来、ビジョンに向かって命の時間を使おうとする仲間がいたことに気が付きました。

仙台で独立してしばらく一人で何か燃え切らない感覚があったのですが、「あぁ仲間だったんだな」ということに気が付いたのがこのときです。そこからは引力で仲間を引き寄せ始めました。ちなみにここで言う仲間とは雇用形態等は一切関係なく、同じ未来に共感しあえることと、そこに人生の時間を本気で費やそうとする人かどうか。そこだけです。

自分自身、正直未来像を明確に描けている訳ではなないし、そこに至るステップも毎日試行錯誤なんですが、この一緒に歩んでくれる仲間がいるからこそ、自分の人生を生きれている感覚にあるのだと感じています。

自分の意思(WiLL)を明確にすること、そして仲間の存在を得て羽山さんはご自分の人生を生きている、という状態に入っていかれた訳ですが、その状態に至るきっかけのようなものはあったのでしょうか?

きっかけとなったのはコーチングとの出会いですね。コーチングに初めて出会ったのは2005年なのですが、独立して仙台に行って学ぶことに対する時間がぽっかりできた2015年にコーチングをあらためてしっかり学ぼうとスクールに通いはじめました。

なぜそのタイミングで学ぼうと思ったのがコーチングだったのでしょうか?

まずブレインパッド時代に自分にはコミュニケーションスキルが圧倒的に足りていないことを突きつけられていて、人事として生きていくにはコミュニケーションスキルをもう一度見直したいと以前から思っていました。なので当初はコミュニケーションのスキルアップが目的で、人生に取り入れようとまでは考えてはいませんでした。

何がそう思わせたのですか?

2015年2月28日がスクールDAY1で、DAY2は翌日3月1日だったのですが、私はこのDAY2のタイミングで既に、「これはヤバいぞ」という感覚になっていました。世のなかの経営者やマネージャーは少なくとも全員学んだほうが良いもので、自分の人生にも取り入れようと。

ブレインパッド時代にIPOにむかうなかで人事として上手くいかないことばかりで疲弊していたというお話は先ほどさせていただいたのですが、当時の自分はその上手くいかない難しい状況を打破するソリューションを欲っしていました。その状態の自分がコーチングに触れたとき、当時思い描いていた難しい課題が全てラベリングされ、整理されていったんです。一気に視界が開けて、武器をもてた感覚になった。難しい問題に直面しすぎて喉がカラカラになっていた私を潤してくれたのが紛れもないコーチングでした。

課題の解決手法は世のなかにたくさんありますが、おそらくコーチングというかかわりがもたらす力が、羽山さん自身にとって非常にしっくりくるものだったのでしょうね。

コーチとしてのかかわりは、ひたすら受容し、共感し、エンパワーする。自分は自分でいいんだよ、という揺るがないスタンス。これが課題をただ解決するということに加えて、自分にとって非常にしっくりくるものでした。ベンチャーの管理職として、肩に力を入れて、成果を出さなければいけないと歯を食いしばって頑張って、自分の出来ないことばかりにフォーカスして・・・という生き方になってしまっていた自分に対して、そのままでいいんだよ、と認めてもらった感覚があり、とても温かくて。貴方は貴方で大丈夫だと。

疲れた大人をHappyにしたいという想いで社会に出た自分自身がいつのまにか疲れた大人になっていたんです。そんな自分もHappyにしたいし、多くの人に貴方は貴方で素晴らしいということを想い出してほしいという想いになったのがこのときでした。コーチングを自分自身これからも学び続け、提供し続け、そして受け続けて、広め続ける。それをこのDAY2で決めました。

相手を受容、共感しエンパワーするコーチングが羽山さんの思い描く生き方と重なった訳ですね。

そうですね。まさにこのDAY2で、当時の講師でありいまでは私のコーチングの師匠とも言える方から、「皆さんは自分のことを幸せにしてますか?」と問われたとき、とてもドキっとして「あぁ、全然出来てないな」と。また、それと同時に、自分自身を一体どうしたら幸せに出来るのかもよくわかっていないことに、ただただ愕然としました。

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自分を犠牲にしてでも頑張る、という人が世のなかには多いような気もするなかで、「自分を幸せにしていますか?」と問われて、YESと答えられない羽山さんがいたのですね。そこからどのようにして自分を幸せにする方法を見つけていかれたのですか?

はい、まずそこから半年間まさにコーチングを受けながら考えていきました。まず私が実現したい未来像ってどんなものなのか。そこで掲げたのが、「組織のなかで仲間一人一人を勇気づけていく人(=ドリームマネージャーと当時は呼んでいました)を世の中に増やしていくこと」でした。自分は人生を掛けてまずここから10年、このテーマに取り組んでいくぞと。同年8月16日の卒業式にこれを宣言して、ここから10年間コーチとして組織開発に全力を尽くすことを決めました。

これは自分にとって心からワクワクする宣言となりました。やらされ感なんかではなく、ただひたすら心が踊り、ワクワクすること。純粋にやりたいと想えること。考えると思わず行動したくなること。そんな感情を伴ったやりたいことに、「自分の人生の時間を使わせてあげる」こと。この生き方こそが私が私自身を幸せにしてあげることなんだと。

「やりたいんでしょ?」と。「じゃあやりなよ」って自分に言ってあげられること。自分がワクワクするWiLLを言葉にして、そこに何ら我慢なんかせずに自分の人生の時間を使って良いよ、としてあげることが自分の幸せなんだということにこうして辿りつきました。

私はこうしてまず自分自身を幸せにしながら、そこからかかわる方々に「あなたはどうなりたいの?」「どうありたいの?」と問い続けています。そして、本当にこれがやりたいんだ、これを大切にしたいんだ、というものを目の前の方が発見できたとき、そこにはきっと心からワクワクする感情が湧き出てきます。その感情であり、エネルギーを大切にして、自分の人生において限りある命の時間をそこに使わせてあげられる人を増やす。これを一人きりではなく仲間と取り組んでいる。これこそが今私が、自分の人生を生きていると実感できている状態です。

「やりたいんでしょ?じゃあやりなよ」って自分自身に言ってあげられることが、羽山さんの考える「まず自分を幸せにすること」なのですね。本来の自分を受容し、本来やりたいことに人生の時間を思いっきりつかわせてあげる生き方はとっても素敵です。

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では、そんな生き方に辿りつかれた羽山さんにとっての自分らしさとはあらためてどのようなものでしょうか?

私にとって、6歳頃までのジャカルタでの生活で培われた、個としてのユニークさ、個性を主張したい自分、私は私なんだ!と言いたい自分、ワイルドでレアな選択をしたがる自分、その価値観がやはり自分の根底にあると思っています。目的地に向かって最短最速の道がそこにあったとして、でもそれが大多数の人が選択しそうな安全策だとわかっていたら良くも悪くも選ばないのが自分なんだと。

実現したい未来に向かうという大きな道を進みながら、要所要所でワイルドでいたい自分の価値観を大切にしながら生きていく。WiLLに向かって仲間とともに、まず自分を幸せにして、ワイルドな選択をする。

これが私の自分らしさなのかもしれません。



インタビューを終えて

いかがでしたでしょうか? 羽山さんの「まず自分を幸せにする」という生き方。羽山さんが辿り着かれた、「幸せ」とは、決して自分を甘やかすとか自分に優しくするといったことではなく、心からワクワクするWiLLに向かって、なんら我慢することなく自分に人生の時間を使わせてあげること、でした。

自分自身にたいして「いいじゃん、やりなよ」って言ってあげる生き方をしていくこととは、まさに自分の人生を生きていくということ。

そして、その人生。時間は決して巻き戻すことはできず、誰しもいつか終焉がやってきます。

皆さんはその瞬間をどのような想いで迎えたいでしょうか? 人それぞれ様々な生き方がありますが、少なくとも羽山さんのように、自分の幸せをまず考えて生きていった先に迎えるその瞬間を想像すると・・・。きっと、自分自身に対する強い感謝の気持ちで心が満たされた状態でその瞬間を迎えられるので
はないかと感じました。

もしもあなたが、まず自分を幸せにしてあげるとしたら・・・何をしますか?
 ※インタビューメディア「i f」からの問いです。是非想像してみてください。


自分がどうあれると幸せなのか。それをしっかりと意識して言語化できている人は多くはないかもしれません。だからこそ、一度立ち止まって考えてみてはいかがでしょうか?


 

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株式会社Pallet 代表取締役
株式会社AOD 取締役 CCO(Chief Communication Officer)
一般社団法人グラミン日本 仙台支部 支部長 
 羽山暁子

大手人材サービス会社での法人営業・人事を経てデータサイエンスカンパニーに転職。人事マネージャーとして、マザーズ・東証一部上場を経験。 新卒・中途採用、社内文化醸成、社内研修、労務、メンタルヘルス等幅広い人事経験を持つ。2015年 東京から仙台にIターン。3年間のフリーランスの後、株式会社Pallet設立。アドラー心理学に基づくコーチングを基に、ビジネスコーチ、研修講師、組織コンサルタントとしてローカルの中小企業から、グローバル企業まで組織開発に関わる。「人づくり、組織づくり、町づくり」「はたらくことがあたり前に幸せな社会を共に創る」をテーマに活動。



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