
起業したのに本業禁止。理想のエージェントをつくるための遠回り
2016年、リクルートで12年の経験を積んだ佐藤雄佑が創業した「ミライフ」。
「もし未来が○○だったら(未来+if)」という“理想未来”を起点に
非連続なチャレンジをする人を応援する、人材エージェントです。
大好きな仕事だからこそ、誰にも真似できない理想のエージェントをつくりたい。
創業に込めた思いをひも解きます。
人生がかかっている意思決定を支援する
▲ベルシステム24時代の佐藤(写真中央)
いつか、自分のビジネスで世の中に貢献したい――。
自身の父親も起業家であった佐藤にとって、
「自分の会社を持ち、ビジネスを展開していくこと」は、とても身近なことでした。
幼いころから「何でも自分で決めなさい」と自由・自律をモットーに育てられてきた佐藤は、
自分らしく働くために起業をしようと、大学でも経営学を専攻。
当時はまだ何の事業をやるかを決めておらず、
とにかく起業することだけを決めていました。
しかし、大学3年生のときに、学部一厳しいと言われるようなゼミに入り、
そこでマーケティングの面白さに目覚めます。
佐藤 「マーケティングにおいて、相手が何を考えているのか? どんなものを求めているのか?
相手のインサイトを考えることがとても好きで、マーケティングの仕事がやりたいと思うようになりました」
2001年、就職氷河期にも関わらず、誰もが知っているような大企業から複数の内定を得た佐藤。
ところが、すべて辞退して佐藤が選んだのは、
コールセンター事業を展開する「株式会社ベルシステム24」でした。
周囲から驚かれましたが、インターネットマーケティングがまだ本格化していない時代に、
これからの時代に求められるダイレクトマーケティングができると考えて選びました。
販売促進の企画、CRMなど、やりたいことをやらせてもらえる環境で充実した毎日を送っていた佐藤ですが、
次第にマーケティングという概念よりも、結局、“誰がやるのか”が重要だと考えるようになります。
“人”の重要性に気づいた佐藤は、ダイレクトに人に関わることができる、人材ビジネスをやろうと決意。
なかでも、特に人材紹介は、意思決定の重要度が最も高いことに気づきます。
佐藤 「仕事を選ぶという、“人生がかかっていること”を判断する場に向き合うことは、
その人の人生をより豊かにするお手伝いができるということ。すごく価値がある仕事だと思いました。
特に、消費者行動や人が介在する価値にとても興味があったので、
個にフォーカスした人材紹介をやりたいとリクルートの門を叩いたんです」
2年9ヶ月勤めたベルシステム24を辞め、リクルートエイブリック(現 リクルートキャリア)に入社したのは、
2004年1月。佐藤が26歳のときでした。
“起業する”という思いを持ち続けていた佐藤は、
面接で「人材ビジネスで起業するつもりなので、5年で辞めます」と宣言していました。
ところが、その後12年も在籍することになります。
部下の約半数が早期退職。180度マネジメントスタイルを変える
▲リクルート時代、佐藤が率いるチームは全社売上No.1のMVGに選ばれた
リクルートに入社後、営業職として入社3ヶ月で1000万円以上、
1年で四半期1億円超えの売上という華々しい成績を残した佐藤。
2006年4月にはグループマネージャーに昇進し、
年4回の四半期中3回、MVG(Most Valuable Group)として全社1位を獲得。
2008年10月、30歳で千葉支社長に任命されました。
ところが、当時の佐藤は、とにかく部下に厳しく、高いレベルの仕事を要求していました。
その甲斐もあって、チームは売上目標を達成していましたが、メンバーは疲弊しきっていたのです。
そんな佐藤が自分の価値観やマネジメントのスタイルを劇的に変えたのは、リーマンショックがきっかけでした。
リクルートエージェント(2006年リクルートエイブリックより社名変更。現 リクルートキャリア)は、
リーマンショックによる業績悪化にともない、早期退職者を募集。
当時佐藤が率いていた千葉支社も、約半数のメンバーが2009年9月末に会社を去りました。
翌日、閑散とした支社で行なった朝会で、佐藤は、残ったメンバー全員の前で、頭を下げ、こう話しました。
ーーごめんなさい、私のやり方が間違っていました。
みんなはやれることを何でもやってくれて、頑張ってくれたけど、
結局みんなを守れなくて、本当に申し訳ありません。
残ってくれたみんなのためにも、リクルートエージェントが復活するためにも、今日から方針を思い切り変えます。
そこから、「とにかくできることは何でもやる」というスタイルから、
「選択と集中をして生産性を意識する」というスタイルに180度変わりました。
すると、リーマンショックの余韻で他の支社や本社が苦戦するなか、
千葉支社のメンバーだけがほぼ全員、目標を達成するようになったのです。
独立を許してもらうために、生活費3年分を妻に前納
▲男性では珍しかった育児休暇を取得。リクルートの社内報でも育休中のことを語った
こうして佐藤は、2010年10月から、人事グループのマネージャーに異動。
リクルートグループの分社統合プロジェクトを担うことになりました。
人事制度や組織体制、風土、ビジョンなどすべてを統合して新会社であるリクルートキャリアをつくるというミッション。
この2年は、佐藤のリクルート人生において、一番大変な時期でした。
そして、2012年10月1日、リクルートキャリアが発足。
ひとつの仕事をやり切ったという充実感を抱きつつも、佐藤の視点は未来を見つめていました。
そこで佐藤は、自分にふたつの問いかけをします。
「リクルートで偉くなりたいのか?偉くなれるのか?」
この問いに対し、「偉くなりたくないし、なれない」と即答した佐藤。
「やはり起業しよう」そう決めたのです。
ところが、佐藤はすぐには起業しませんでした。
リクルートキャリア設立の約3週間後、第一子が生まれたからです。
「もしも今、子育てと向き合わなければ、一生後悔するだろう」。
そう感じた佐藤は、リクルートキャリアにとどまることを決め、
当時男性社員では珍しかった育児休暇を取得。
育休からの復帰後は、半年間キャリアアドバイザー組織のグループマネージャーを勤めた後、
株式会社リクルートエグゼクティブエージェントに出向。
佐藤 「起業することは決めていたものの、タイミングは未定でした。
育休を取らせていただいてすぐ辞めるのは無責任だと思ったので、
最後に、リクルートでしかできないことをやろうと決めました」
とはいえ、起業への想いは抱き続けていた佐藤。しかし、佐藤の妻は以前から起業に反対していました。
起業して本当にうまくいくのか、と。
子どもがまだ幼く、お金や生活のことが気になるのは当然でしょう。佐藤は打ち手を考えました。
佐藤 「起業を許してもらうためにどうしようかを考え、生活費3年分を前納することにしました。
2015年7月13日、僕たちの結婚記念日にご飯を食べに行った店で、プレゼン資料を出して、
『なぜ独立したいのか、何をやりたいのか、お金はどうするのか』などをプレゼンしました(笑)」
今回は本気だということを悟った妻からようやく許可を得て、佐藤はいよいよ起業に向けて動き出します。
天職を、あえて“封印”する
▲起業後、佐藤が執筆した本(左)と論文(右)
2016年3月にリクルートエグゼクティブエージェントを退職した佐藤は、同年3月にミライフを設立。
ところが、初年度はあえてエージェントビジネスをやらないと決めました。
佐藤 「リクルートエグゼクティブエージェントに出向し、はじめてカスタマーと直接向き合う経験をし、
人材エージェントは自分の天職だと思いました。
なぜなら、自分がやりたいと思っていた、個にフォーカスしたサービス(=Will)と、
人事責任者・さまざまな業界を担当してきたエージェントとしての豊富な経験(=Can)が重なっているから。
でも、リクルートの延長線上で同じやり方をしても、
自分のオリジナリティを出すことはできないのでは? と思ったんです」
佐藤は、「最初の1年間は今の自分にできることではなく、
お金にならなくてもやったことのないことに挑戦し、自分の幅を広げよう」と決意。
すると、いろいろなご縁が舞い込み、
新規事業を生み出す人材を育成する「事業構想大学院大学」のプロジェクトディレクターの仕事や、
ITベンチャーの社外取締役、人材コンサルなどに挑戦することになりました。
他にも、リクルート時代から通っていた早稲田ビジネススクールの論文や書籍も執筆。
売上的には赤字ながらも、貴重な経験を積むことができました。
佐藤 「コンサル、執筆、講演など、いろいろとやってきたからこそ、
1年間封印してきたエージェントビジネスがどうしてもやりたいと思うようになりました。
エージェントビジネスは、企業にも、求職者にも感謝してもらえますし、
自分にとっても日々新しい刺激、出会いがあって、貢献できて、ホントHAPPYになれる仕事です。
そうしてはじめたエージェントの仕事は、心から楽しいと感じています」
「Will=やりたいこと」と「Can=できること」が、重なっていればいるほど幸福度は上がる。
その思いを胸に、ミライフは、これからも理想のエージェントを目指して歩んでいきます。